大倉山ヒルタウン/ヴィンテージマンションの魅力

丘に沿って建てられた集合住宅。丘陵の高低差に合わせてヴォリュームが連続する。


プロジェクトの参考に大倉山ヒルタウンを見てきた。1970年代の竣工で、神奈川県建築賞を受賞したタウンハウスの名作である。大倉山の駅を降りて歩いて数分の丘の上に建っている。

ともかく特筆すべきはその緑の多さ、竣工後40年以上が経ち、植栽が根付いて自然の森の中に建っているように見える。市街地より気温が低く感じる。

階段の見上げ。思った以上に高低差がある。上下するだけでも良い運動。

棟と棟との間の小径。高低差をキャンティレバーで解消し、その下にアプローチを配している。階段の横に自転車のためのスロープ。いまはバリアフリーの関係もあり、この規模では、このような階段だけのの各住戸へのアプローチ構成は出来ないだろう。

階段をつなぐ屋上庭園。高低差のある間にあるこのような場が息抜きとなっている。

屋上庭園から屋根を見下げる。三角形の部分はトップライト。

一階、二階、三階は別の住宅になっている。それぞれの住戸へは階段でアプローチする。一階は通路側からは半地下的なレベル設定。坂道をスキップフロア的に使っている。

一部建物の下は駐車場に、高低差を存分に利用している。

建築からかなり経っており、このように高い丘に配置され、坂道の上にあるにも関わらず、いまだにこの集合住宅は人気があり、高値で取引されている。長い年月をかけて緑に囲まれた環境が、自分の住む集合住宅の中で森林浴ができるような環境が形成されている。時間をかけてつくられた豊かな坂道空間が、エリアのステイタスを上げている。関東でも屈指のヴィンテージマンションといえるだろう。


代官山ヒルサイドテラス/街路の復権←こちらも高低差を生かした日本を代表する集合住宅。でも、丘の上感は大倉山ヒルタウンの方が強い。

SANNAの小品/大倉山の集合住宅←大倉山ヒルタウンの近くにあるSANNAの設計による集合住宅。対称的なデザインでありながら、また別の形でコミュニティの形成への提案がある。

 

ホテルイルパラッツォ/アルド・ロッシ/都市の建築

バブル期に多くの建築が外国人建築家によって建てられたが、その中で本当に価値があるものは少ない。その数少ない例がこの「ホテルイルパラッツォ」だろう。

「ホテルイルパラッツォ」は、バブルの絶頂期だった1989年、福岡市の中心部に、イタリア人建築家アルド・ロッシの建築設計と、内田繁のインテリアデザインによって建てられた。それまでヨーロッパでローコストの建物しか設計できていなかったロッシが、日本のバブル経済に乗って初めてふんだんな予算を使って建てた、後期のロッシのデザインを代表する建物である。(いまの中国やドバイで建てている建築のようなもの、そんな時代がつい30年前日本でもあったのである)

初めて見に行き、泊まった時のことを今でも覚えている。福岡のどちらかというと旧市街、ラブホテルとかもあった下町に突然どかんと現れたヨーロッパ建築。その強烈なファサードデザイン、正面性に驚いた。そして側廊の部分が見事にイタリアの街路になっていて、よくロッシの作品について言われる「デ・キリコの絵画」のような空間が現実化していた。そこは当時倉俣史郎他、数人の建築家やデザイナーが嗜好を凝らしたバーが設置されていて、夜になるとその照明と併せてより異界性が際立った。

この建物のことを思い出したのは、コミュニティの形成に向けた、日本の街路空間の考察と、その流れの中で、ヨーロッパの街路空間との違いについて考えていたからである。ヨーロッパの街路は広場につながり、その広場は教会に面している、その教会は強烈な正面性をもち、広場と対峙している。それにくらべて日本の街路は奥が見えない。歩いているといつのまにか社寺につながり、鳥居や門をくぐって社寺の正面に到達する。ロッシのこの建物は強烈な正面性をもって日本の街並みに対峙し、それがランドマークとして機能している。

1960年代にロッシの書いた「都市と建築」は、まだ彼が三十代で、ほとんど実作ができていなかったころの著作である。ヨーロッパの都市を歴史的に分析しエッセンスを抽出したその本は、1970年代以降の建築に大きな影響を与えた。ロッシが操る尖塔、回廊、勾配屋根などの建築言語は、ポストモダンの流れと共に一世を風靡した。

その風潮は消費されいつしか廃れたが、ロッシの建築は今なお福岡の地に輝きを放っている、日本のコンテクストに突然出現した、ヨーロッパの都市の断片、それは街並みとシームレスにつながっているのが、とても面白い。

この建物と、近くになるジョン・ジャーディの「キャナルシティ」これは、海外の建築家を起用した数少ない成功例である。日本的ではない強烈な空間が街を変えた良い例だと思う。


何回見てもこの建物の正面性はすごい、窓が全くなく列柱で処理している割り切り方!赤いインド砂岩の使用はヨーロッパと東洋の交点を意識したとのこと。

ホテルイルパラッツォHP

 

 

 

空中都市008 クウェート大使館

クウェート大使館が解体されるという報道もあり、少し前だが最後の姿を見に行った。
海外の仕事が中心となった、1970 年代における丹下健三の数少ない国内での案件である。
サイドから見る。塔屋の見え方も面白い。
この、天空の城ラピュタのような空間構成、丹下の構想力がよくわかる。
梅田スカイビルにも似ている。コアと空中庭園、それを結ぶ階段。
この格好良さはもっと評価されるべきだろう。
ヴォリュームとヴォリュームの隙間が空中庭園になっている。浮遊するオープンスペースが面白い。山梨文化会館の発展系であり、造形や空間構成としてジャンプしている。
丹下健三の作品ですごく好き!その造形力、構想力が炸裂している。
ちょっと設計過程を調べてみたいね。
近隣から見る。浮遊するマッスの迫力!
ちなみに空中都市008は、未来都市を舞台にした小松左京原作のNHK子供向け人形劇。まさにこの建物が建った時代と同時期の作品。この建物を見ると当時の未来都市の浮遊するイメージを思い出す。
在日クウェート大使館建て替えニュース

代官山ヒルサイドテラス-街路の復権

前の投稿でジェイン・ジェイコブズと、「アメリカ大都市の死と生」を取り上げました。街路の復権とコミュニティの創出という意味で、日本にも教科書的なお手本がいくつかあります。その代表例が槇文彦設計の「代官山ヒルサイドテラス」です。日本的な「見え隠れする都市」の構造を抽出し、30年という長い年月をかけて、小さな街路や広場の連続によって構成されたこの街並みは、代官山というエリア全体のステイタスを押し上げました。さらに、東急東横線のイメージを向上させたといっても過言ではないと思います。ここでは、街路と小さな広場の連続という視点からその特徴をざっと紹介したいと思います。

山手通りと引き込まれた街路との関係、歩道と並行するデッキに高低差をつけて場に変化をもたせています。

建物と建物の間のスペースを利用し、隣地との高低差を利用して作られた広場です。年月が経ち植栽が伸び、陽を遮るシェイドとしても機能しています。

歴史的記憶として、元からあった由緒ある塚を残しています。

通りを挟んだ6期工事でも、使われているマテリアルや納め方は変わっても、空間構成の考え方は継承されています。小さな広場と街路の連続。

別のクライアント、別の建築家による、隣地に建つ蔦屋(代官山T-site )にもこの空間構成は継承されています。こちらの設計はクライン-ダイサムアーキテクト。小さな街路空間に多くの人がたむろしています。

少し離れたところにあるヒルサイドテラスアネックス。こちらは外部ではなく建物内部ですが、通り抜けの空間に小さな中庭が面しています。表と裏の通りの高低差をうまく利用しています。


長い年月をかけて作られた、小さな広場や街路の連続がコミュニティを形成する空間になっています。この日もゴールデンウィーク初日でしたが、どこもそぞろ歩きする人がたくさんいました。良い実例が日本にもいくつもあります。こういった場を増やして、子どもたちと高齢者が交わる場をつくっていきたいと思います。


関連ページ

コミュニティの再生を考える上で、街路の復権を1960年代に唱えた、ジェイン・ジェイコブズの著作と映画について書きました。槇文彦の建築にも大きな影響をあたえています。

アメリカ大都市の死と生

ジェイン・ジェイコブズ-ニューヨーク都市革命-