UR集合住宅歴史館訪問その3-戦後最初期のシステムキッチン

住宅公団蓮根団地に設置された日本最初期のシステムキッチン


UR集合住宅歴史館についての記事3本目です。

晴海高層アパートとほぼ同時期に竣工した、板橋区蓮根団地(昭和32年(1957年)竣工)に設置された日本最初期のシステムキッチンを見学しました。

こちらもベランダまで再現されています。ベランダ側から入りました。

食堂と寝室が分離されたのは実はつい最近、戦後になってからの話です。それまでは日本の庶民の住宅は食住一致していました。これが分離されたのは、戦前から戦後にかけての建築家(建築学者)の西山夘三による日本住宅の使われ方調査によるものです。これらの研究は戦中から戦後にかけて、同潤会調査部から住宅営団において行われました。この結果をベースに、職住分離のコンセプトが立てられ、蓮根団地はそのプロトタイプとして作られたものだったのです。

キッチン詳細、人造石研ぎ出しの仕上げです。この後、ステンレスキッチンが開発され、採用されます。(人造石研ぎ出しの仕上げが採用されたのは少ない、これは貴重な遺構)

これは引きの写真、システムキッチンと併設されたダイニングテーブルも戦後初期のモノ、その斬新なデザインはとても人気があり、持っていかれないように鎖で繋がっていたとのこと。

こちらは同潤会アパートに設置されたキッチン、つい10年前の最先端でもこんなデザインとレイアウトでした。(まあ戦前戦後の違いはありますが、、、)

こちらは昭和33年(1958年)竣工の多摩平団地テラスハウス、こちらはステンレスシステムキッチンが導入されています。大分今のデザインに近付いてきています。

戦後15年の間に、日本人の生活は革命的な進化がありました。これは戦争の破壊によるインフラの一新にも起因しています。古い日本の生活や、家族習慣が、住宅公団の団地の登場によって一気に変わりました。その影響は、今でも続いているといっても過言ではないのです。


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UR集合住宅歴史館訪問その2-晴海高層アパートメント

晴海高層アパートメント模型、ここも現存するとき、何度も訪問した。平成9年に解体。現在は晴海トリトンスクエアになっている。(その落差に、最初は位置関係もわからなかった。)


先日の、UR集合住宅歴史館訪問のつづきです。次は晴海高層アパートメントについて。昭和33年竣工。日本最初の高層アパートです。設計は東京文化会館など、日本の近代建築の牽引車であった前川国男。

まずは模型から。全体のデザインは力強く、やはり前川の師匠であるル・コルビジェのユニテ・ダビダシオンを想像させます。

この模型は3層6住戸を一単位としたメガストラクチャーの構成を表現しています。将来の住宅の、規模も含めた可変を考慮した先進的なものでした。現実はそのような大規模な変更はなく、このままの構成でつかわれつづけたのですが、、、。

素晴らしいのは住宅のインテリア。全ての線が一致するように、高さ、畳の割り付け、欄間の位置が調整されています。前川らしい几帳面なデザイン。

一方で、配管は当初露出配管だったとの事。スペースの有効利用を考えていたとの事ですが、、、。

前川国男デザインによるダイニングテーブルと椅子。かっこいい!

WCと風呂の境界壁のデザイン。照明が両方を照らす形に。当時は照明の電力消費量が大きかったことによる苦肉の策。

これが面白い。各住戸へのアクセス図。スキップフロアのため、各住戸を訪れた人が迷わないようにとの配慮。でも、当時はスキップフロアなどないから、混乱しただろうな。。。

こちらは移築されたシリンダー状の外部階段。竣工後住民の要望で追加されたとの事。現地から良く持ってきましたね。

階段の模型、最初から設計されていたのかと思っていました。

かように、外から眺めたことはあったけと、インテリアを見てその良さを再確認しました。晴海高層アパートを解体すると聞いて、よくもまあそんな日本の建築遺産を解体するか、と思いましたが、いまだったら保存して再生する、という選択肢もありえたかもしれません。メガストラクチャーが現代のニーズに合わせて再生するところを見たかった気がします。


弘前市 前川国男の処女作「木村産業研究所」を見て

前川国男の処女作の視察記

前川國男の外装/上野公園の建築3題

外装材をテーマに、上野にある前川国男の建築について

UR集合住宅歴史館訪問その1-同潤会アパートメント

代官山の同潤会アパートメント模型、何回も見に行ったが、解体されてしまった。当時の写真は書庫を探せばあるはずだが、、、


先日機会があって、以前から行きたかった八王子にあるUR集合住宅歴史館に行ってきました。今回はその中でも特に集合住宅歴史展示棟について書きたいと思います。こちらの施設の一番の特徴はUR(旧名;日本住宅公団)の歴史を飾る代表的な建物のインテリアを移築して再現していること。これが日本の住宅史の貴重な資料ということで、ようやく現物を見ることができました。とはいっても、実は外から眺めたことがある建物が多いのだけど。

展示は同潤会アパートから始まります。同潤会アパートとは、、、UR集合住宅歴史館で配布されている資料から引用します。

「大正12年(1923年)の関東大震災の住宅の復興を目的に、義損金をもとに内務省の外郭団体として設立されたのが財団法人同潤会です。同潤会は、住宅不足を補うため直ちに木造住宅の建設に着手、その後、大正15年(1926年)からは、耐震耐火のアパートメントを建設、入居が始まります。同潤会アパートは、当時まだ珍しかった鉄筋コンクリート造の建物に、狭いながらも、ガスや水道、水洗便所を備えた賃貸住宅として、新しい生活様式を提示。10年間に東京と横浜の16か所に約2,800戸を供給しました。」

いわば、日本の近代集合住宅の原点でもある同潤会アパート、展示は東京に建設された建物すべての全体模型から、同縮尺で並べられた模型はすごい迫力で、これだけでも見に来た価値があります。

清澄通りの同潤会アパートメント群の模型、これらも全て解体されてしまいました。こちらもかつて何回も現地に見に行ったことがありました。

続く展示は、同潤会代官山アパートメントのインテリア移築。

当時の材だけでなく、家具、照明も全て移築されています。インテリアのデザインは、直線の構成など、どこかアールデコ調なところがあって時代のセンスを感じます。

窓も再現されています。下の窓はすりガラス、上のガラスは透明、プライバシーの確保だけでなく、天皇行幸のルートでもあったので、直接外が見えないようになっています。

造り付けベッド、下は収納になっています。

照明器具も当時のモノ。

仕上材と構造材の一部も移築。

これが面白い、集合住宅の扉の変遷。最初は木扉で、防火のため一部だけ鉄を貼っています。プライバシーや防音を考慮し扉がどんどん重く頑丈になっているのがわかります。ですが、これとあわせて住宅の個別化、核家族化が進み、家庭間の交流が減少していきます。

同潤会アパートの試みから日本の近代集合住宅は始まりました。ここでのノウハウが戦後の日本住宅公団にすべて引き継がれていきます。日本の集合住宅建築の歴史がここに息づいています。


引き続き、次は戦後の前川国男設計「晴海アパートメント」についての記事です。

 

「建築からまちへ 1945-1970」国立近現代建築資料館

上は国立近現代建築資料館のインテリア。方形の部屋に円形の展示ケースがレイアウトされている。


湯島のオフィスの裏にある、国立近現代建築資料館で、9月9日まで公開されている、「建築からまちへ 1945-1970」展に行ってきた。


展示が変わるたびに行っているけど、このブログで紹介するのは初めて。旧岩崎庭園に隣接し、庭園側からと、湯島地方合同庁舎正門側からと、両方からアプローチできる。合同庁舎側からならば、入場無料。

こちらは岩崎庭園側のエントランス。迂回して建物に入る。建物は湯島地方合同庁舎[2]敷地の一角にあった別館(1971年竣工)と新館(1984年竣工)を改修(どちらも旧司法研修所)をリノベーションした。私の知人の弁護士がここで研修を受けたと懐かしそうに話していた。

エントランス正面。ここから入り、二階の展示室へアプローチする。

展示室への階段、コルビジェ風のデザイン。ここを上がってアイキャッチ画像の展示室へ入る。


さて、今回の展覧会であるが、戦後復興時期に建築家が構想した様々な都市計画を一手に展示したユニークな企画で、初めて見る資料、図面がたくさんあった。

まずはこちら、坂倉順三の設計した東急文化会館の断面図。その他新宿西口計画の図面など、初見の資料ばかり。

竣工時に配布された東急文化会館のリーフレット。坂倉順三の渋谷駅前計画、新宿西口計画はいずれも実現し、たとえ東急文化会館のように解体されて、「ヒカリエ」に建て替えられたように、時代による変化を受け入れながらも、いまもその骨格は残り機能している。


これはプロジェクト自体の存在を知らなかった。ある意味今回の目玉、池辺陽による焼け野原になった渋谷中心部の復興計画、1946年に計画されたとの事。当時池辺陽も新進建築家のひとり、戦争直後で現実に建つ仕事もなく、復興計画しかなかった。しかし、青年建築家のあふれる構想がこれらの図面に叩きつけられている。「輝ける都市」コルビジェ風のデザインが時代を感じさせる。後の住宅作家池辺陽からはちょっと想像しえない計画案。

力のこもったパース、ただし、この計画は1ミリも実際の渋谷中心部には反映されていない。

渋谷区の人口分析、グラフも地図と組み合わされデザインされている。レム・クールハースを先取りするような調査データのグラフィック化。このあたり、後の池辺陽を想起させる。図面や資料は今回展示に向けて修復されたとのこと。


こちらは吉阪隆正の大島復興計画。こちらも実現はごく一部にとどまるが、都市への考え方、構造の提案はいずれも貴重なものだ。地域のもつ特性や、歴史を引き出すことにより、1960年代に始まるCIAM的な都市計画への批判も込められている。


今回の展示はいずれも注目すべき資料であり、最近まちづくりなどについて考えることが多いので、大変インスパイアされた。資料的価値が高く、撮影不可の表示のある資料以外は撮影OKだったので、写真を沢山撮ってしまいました。


ちなみに岩崎記念館の様子。今改修中。庭の一部も擁壁工事が進んでいる。

コンバージョンの好例/目黒区役所

1階回廊から水盤のある中庭を見る。

とある案件の現地調査があり、その足で必要もあって目黒区役所を訪れた。民間施設を公共施設にコンバージョン(用途変更による転用と併せた改修)した好例である。

この建物はもともと千代田生命保険本社ビルだった建物で、設計は村野藤吾による(1966年竣工)。1969年にBCS賞なども受賞し、東京にある彼の作品の中でも代表作といっていい建築だった。1990年代末の金融危機が引き金となり、2000年10月に千代田生命保険が更生特例法の適用を申請し破綻した。それに伴い、管財人が目黒区に本社売却を打診、ちょうど区役所が手狭になり建て替えも含め検討していた区が買い取り、大規模改修とあわせて区役所にコンバージョンした。

千代田生命保険ビルが区役所にコンバージョンされたと聞いて本当に驚いたものである。そして実際に使われているところを見に行って、さらに感動した。その気持ちはこの役所に訪れるたびに深まっている。まずは外部からみてみよう。

街中から建物を見る、繊細なアルミキャストの外装、低層の住宅や店舗が立ち並ぶ周辺環境にあわせ、外観を分節しスケールを感じさせないようなデザインを村野が心がけたことがよくわかる。

水盤のある中庭、アルミキャストの外装がこれでもかと使われ、外観にリズムをもたらしている。

側廊を見る。床からヌルっとタイルが立ち上がり窓面へ、このあたりは村野独特のディテール。足元の処理が本当にいつも面白い。

水盤に突き出す茶室、このあたりもなかなか見られるものではなかった。それが区役所となり市民に開放され、いつでも見ることができる。これはプライベート(民間企業)が所有していた文化的価値を、市民に(思いもよらず)開放したといえるだろう。

こちらもエントランス正面にある階段。自由曲線の連なる階段は村野の得意技。支柱の繊細なデザインも素晴らしい。写真でしかみたことなかったものが、いつでも見られて市民に使われている。このありかたに感動する。

エントランスホール、おそらく今の設計だったらこんな贅沢な空間の使い方はできなかっただろう、良い時代の建築だった。(公共施設として元々計画されたら、こんな空間はいらないとつるし上げを食っていたに違いない、民間施設→公共施設だからこそ成立している)

トップライトも村野らしいデザイン。(日生劇場の天井など思い出しますなあ)

コンバージョンを計画したのは安井建築設計事務所。事務所のHPにあるレポートを読むと細心の注意をはらって元のデザインを極力生かし区役所に改修したことがうかがわれる。改修工事に携わる設計事務所として良い仕事でした。

また、もともと千代田生命保険自体が、地域密着を当初から目指し、茶室の開放や、中庭を地元のお祭りに貸すなど、もともと地域に親しまれるような会社だったことも、公共機関への転用をスムーズに移行させた原因の一つといえる。

このコンバージョンは、目黒区役所にとっても、東京にとっても、良い文化遺産を手に入れたといってもいいのではないか。この建物を訪れるたびにそう考える。これからはストックをどう再利用していくかが問われる時代である。私もいくつかコンバージョンを手掛けているが、これから時代にあわせ、もっともっとこういう用途変更に力を入れて行きたい、そう思える場でした。


当事務所のコンバージョン例

Fleuve Tamagawa

場所は二子玉川(今話題の施設二子玉川RIZEのまん前)、倉庫を商業施設にコンバージョンした例。

ライステクノロジーかわち米ゲル工場

地方創生を目的とした新しい産業創出を目指し、閉鎖後10年間放置されていた給食センターを最新の食品工場に蘇らせた例。