Bridge City ~ローザンヌの駅舎デザイン

ブリッジからみた夜景、床にデザインされたLEDライトによるLineが美しい。


その場所性を生かしながら、現代的デザインを生かした都市デザインの好例として、10年ほど前に見たローザンヌの駅舎デザインについて紹介したい。

スイス出身の建築家、ベルナール・チュミ。ラ・ヴィレット公園などの設計で知られる彼は、1990年代から地元スイス、ローザンヌ市のデザインを手がけていた。当時発表された「Bridge City」は、ローザンヌの鉄道駅を生かしたデザインの提案である。

ローザンヌ市はもともとスイス、レマン湖畔にあり、高低差のある都市で知られている。上の写真のように、一階かと思って入ったら、建物の屋上につながっていたり、建物の屋上同士をつないで歩行者道路があったり、歩いていて楽しい街だ。

チュミの「Bridge City」プロジェクトは、このような高低差を利用し、橋そのものが都市となる提案だった。町そのものの特徴を生かしたユニークな提案で、当時興味を持って雑誌を眺めていた記憶がある。


都市計画の実現には時間がかかる。2000年代の中ごろ、機会があってローザンヌを訪問した私は、チュミの「Bridge City」の一部が実現していて嬉しくなった。

ブリッジで谷間を繫ぎ、ブリッジは歩行者、地盤レベルはバス停、地下はメトロが交差し、横の動きに対して、それらをエレベーター、エスカレータ、階段でつなぐ縦の交通デザイン。動線が全て視覚化されていて、見ているだけで楽しい。


階段のデザインも工夫されている。

地下に光が導入されるように、吹き抜けや、高低差を生かしたランドスケープも工夫されている。

旧駅舎や鉄道操車場もデザインに取り込まれていて、クラブやレストランにリノベーションされていた、グラフィックデザイナーやインテリアデザイナー、ランドスケープデザイナーも多数参加している様子。


こちらは手すりやランドスケープのディテール、チュミのテーマカラーである赤いラインが特徴的につかわれている。


こちらは夜景、ブリッジの上からみて楽しいだけでなく、歩行者レベルでも光のデザインが工夫されていて飽きさせない。


かように、まちのもつ特徴を生かしながら、活力ある場を生み出し、現代的デザインに落とし込まれているところに感心した。聞けば、この広場の中心に新たにバスステーションが新設されたとのこと、長い年月をかけてかたちづくれる都市のすがたを確認しに再訪してみたい。

 


K&Fのまちづくり、都市デザインの提案。いま進行中のものもありますが、形になるまでは時間がかかります。だが、まちや都市について考えることは一番楽しいことのひとつです。

K&FACTORY City Planning


 

「建築からまちへ 1945-1970」国立近現代建築資料館

上は国立近現代建築資料館のインテリア。方形の部屋に円形の展示ケースがレイアウトされている。


湯島のオフィスの裏にある、国立近現代建築資料館で、9月9日まで公開されている、「建築からまちへ 1945-1970」展に行ってきた。


展示が変わるたびに行っているけど、このブログで紹介するのは初めて。旧岩崎庭園に隣接し、庭園側からと、湯島地方合同庁舎正門側からと、両方からアプローチできる。合同庁舎側からならば、入場無料。

こちらは岩崎庭園側のエントランス。迂回して建物に入る。建物は湯島地方合同庁舎[2]敷地の一角にあった別館(1971年竣工)と新館(1984年竣工)を改修(どちらも旧司法研修所)をリノベーションした。私の知人の弁護士がここで研修を受けたと懐かしそうに話していた。

エントランス正面。ここから入り、二階の展示室へアプローチする。

展示室への階段、コルビジェ風のデザイン。ここを上がってアイキャッチ画像の展示室へ入る。


さて、今回の展覧会であるが、戦後復興時期に建築家が構想した様々な都市計画を一手に展示したユニークな企画で、初めて見る資料、図面がたくさんあった。

まずはこちら、坂倉順三の設計した東急文化会館の断面図。その他新宿西口計画の図面など、初見の資料ばかり。

竣工時に配布された東急文化会館のリーフレット。坂倉順三の渋谷駅前計画、新宿西口計画はいずれも実現し、たとえ東急文化会館のように解体されて、「ヒカリエ」に建て替えられたように、時代による変化を受け入れながらも、いまもその骨格は残り機能している。


これはプロジェクト自体の存在を知らなかった。ある意味今回の目玉、池辺陽による焼け野原になった渋谷中心部の復興計画、1946年に計画されたとの事。当時池辺陽も新進建築家のひとり、戦争直後で現実に建つ仕事もなく、復興計画しかなかった。しかし、青年建築家のあふれる構想がこれらの図面に叩きつけられている。「輝ける都市」コルビジェ風のデザインが時代を感じさせる。後の住宅作家池辺陽からはちょっと想像しえない計画案。

力のこもったパース、ただし、この計画は1ミリも実際の渋谷中心部には反映されていない。

渋谷区の人口分析、グラフも地図と組み合わされデザインされている。レム・クールハースを先取りするような調査データのグラフィック化。このあたり、後の池辺陽を想起させる。図面や資料は今回展示に向けて修復されたとのこと。


こちらは吉阪隆正の大島復興計画。こちらも実現はごく一部にとどまるが、都市への考え方、構造の提案はいずれも貴重なものだ。地域のもつ特性や、歴史を引き出すことにより、1960年代に始まるCIAM的な都市計画への批判も込められている。


今回の展示はいずれも注目すべき資料であり、最近まちづくりなどについて考えることが多いので、大変インスパイアされた。資料的価値が高く、撮影不可の表示のある資料以外は撮影OKだったので、写真を沢山撮ってしまいました。


ちなみに岩崎記念館の様子。今改修中。庭の一部も擁壁工事が進んでいる。

コンバージョンの好例/目黒区役所

1階回廊から水盤のある中庭を見る。

とある案件の現地調査があり、その足で必要もあって目黒区役所を訪れた。民間施設を公共施設にコンバージョン(用途変更による転用と併せた改修)した好例である。

この建物はもともと千代田生命保険本社ビルだった建物で、設計は村野藤吾による(1966年竣工)。1969年にBCS賞なども受賞し、東京にある彼の作品の中でも代表作といっていい建築だった。1990年代末の金融危機が引き金となり、2000年10月に千代田生命保険が更生特例法の適用を申請し破綻した。それに伴い、管財人が目黒区に本社売却を打診、ちょうど区役所が手狭になり建て替えも含め検討していた区が買い取り、大規模改修とあわせて区役所にコンバージョンした。

千代田生命保険ビルが区役所にコンバージョンされたと聞いて本当に驚いたものである。そして実際に使われているところを見に行って、さらに感動した。その気持ちはこの役所に訪れるたびに深まっている。まずは外部からみてみよう。

街中から建物を見る、繊細なアルミキャストの外装、低層の住宅や店舗が立ち並ぶ周辺環境にあわせ、外観を分節しスケールを感じさせないようなデザインを村野が心がけたことがよくわかる。

水盤のある中庭、アルミキャストの外装がこれでもかと使われ、外観にリズムをもたらしている。

側廊を見る。床からヌルっとタイルが立ち上がり窓面へ、このあたりは村野独特のディテール。足元の処理が本当にいつも面白い。

水盤に突き出す茶室、このあたりもなかなか見られるものではなかった。それが区役所となり市民に開放され、いつでも見ることができる。これはプライベート(民間企業)が所有していた文化的価値を、市民に(思いもよらず)開放したといえるだろう。

こちらもエントランス正面にある階段。自由曲線の連なる階段は村野の得意技。支柱の繊細なデザインも素晴らしい。写真でしかみたことなかったものが、いつでも見られて市民に使われている。このありかたに感動する。

エントランスホール、おそらく今の設計だったらこんな贅沢な空間の使い方はできなかっただろう、良い時代の建築だった。(公共施設として元々計画されたら、こんな空間はいらないとつるし上げを食っていたに違いない、民間施設→公共施設だからこそ成立している)

トップライトも村野らしいデザイン。(日生劇場の天井など思い出しますなあ)

コンバージョンを計画したのは安井建築設計事務所。事務所のHPにあるレポートを読むと細心の注意をはらって元のデザインを極力生かし区役所に改修したことがうかがわれる。改修工事に携わる設計事務所として良い仕事でした。

また、もともと千代田生命保険自体が、地域密着を当初から目指し、茶室の開放や、中庭を地元のお祭りに貸すなど、もともと地域に親しまれるような会社だったことも、公共機関への転用をスムーズに移行させた原因の一つといえる。

このコンバージョンは、目黒区役所にとっても、東京にとっても、良い文化遺産を手に入れたといってもいいのではないか。この建物を訪れるたびにそう考える。これからはストックをどう再利用していくかが問われる時代である。私もいくつかコンバージョンを手掛けているが、これから時代にあわせ、もっともっとこういう用途変更に力を入れて行きたい、そう思える場でした。


当事務所のコンバージョン例

Fleuve Tamagawa

場所は二子玉川(今話題の施設二子玉川RIZEのまん前)、倉庫を商業施設にコンバージョンした例。

ライステクノロジーかわち米ゲル工場

地方創生を目的とした新しい産業創出を目指し、閉鎖後10年間放置されていた給食センターを最新の食品工場に蘇らせた例。

ホテルイルパラッツォ/アルド・ロッシ/都市の建築

バブル期に多くの建築が外国人建築家によって建てられたが、その中で本当に価値があるものは少ない。その数少ない例がこの「ホテルイルパラッツォ」だろう。

「ホテルイルパラッツォ」は、バブルの絶頂期だった1989年、福岡市の中心部に、イタリア人建築家アルド・ロッシの建築設計と、内田繁のインテリアデザインによって建てられた。それまでヨーロッパでローコストの建物しか設計できていなかったロッシが、日本のバブル経済に乗って初めてふんだんな予算を使って建てた、後期のロッシのデザインを代表する建物である。(いまの中国やドバイで建てている建築のようなもの、そんな時代がつい30年前日本でもあったのである)

初めて見に行き、泊まった時のことを今でも覚えている。福岡のどちらかというと旧市街、ラブホテルとかもあった下町に突然どかんと現れたヨーロッパ建築。その強烈なファサードデザイン、正面性に驚いた。そして側廊の部分が見事にイタリアの街路になっていて、よくロッシの作品について言われる「デ・キリコの絵画」のような空間が現実化していた。そこは当時倉俣史郎他、数人の建築家やデザイナーが嗜好を凝らしたバーが設置されていて、夜になるとその照明と併せてより異界性が際立った。

この建物のことを思い出したのは、コミュニティの形成に向けた、日本の街路空間の考察と、その流れの中で、ヨーロッパの街路空間との違いについて考えていたからである。ヨーロッパの街路は広場につながり、その広場は教会に面している、その教会は強烈な正面性をもち、広場と対峙している。それにくらべて日本の街路は奥が見えない。歩いているといつのまにか社寺につながり、鳥居や門をくぐって社寺の正面に到達する。ロッシのこの建物は強烈な正面性をもって日本の街並みに対峙し、それがランドマークとして機能している。

1960年代にロッシの書いた「都市と建築」は、まだ彼が三十代で、ほとんど実作ができていなかったころの著作である。ヨーロッパの都市を歴史的に分析しエッセンスを抽出したその本は、1970年代以降の建築に大きな影響を与えた。ロッシが操る尖塔、回廊、勾配屋根などの建築言語は、ポストモダンの流れと共に一世を風靡した。

その風潮は消費されいつしか廃れたが、ロッシの建築は今なお福岡の地に輝きを放っている、日本のコンテクストに突然出現した、ヨーロッパの都市の断片、それは街並みとシームレスにつながっているのが、とても面白い。

この建物と、近くになるジョン・ジャーディの「キャナルシティ」これは、海外の建築家を起用した数少ない成功例である。日本的ではない強烈な空間が街を変えた良い例だと思う。


何回見てもこの建物の正面性はすごい、窓が全くなく列柱で処理している割り切り方!赤いインド砂岩の使用はヨーロッパと東洋の交点を意識したとのこと。

ホテルイルパラッツォHP