UR集合住宅歴史館訪問その2-晴海高層アパートメント

晴海高層アパートメント模型、ここも現存するとき、何度も訪問した。平成9年に解体。現在は晴海トリトンスクエアになっている。(その落差に、最初は位置関係もわからなかった。)


先日の、UR集合住宅歴史館訪問のつづきです。次は晴海高層アパートメントについて。昭和33年竣工。日本最初の高層アパートです。設計は東京文化会館など、日本の近代建築の牽引車であった前川国男。

まずは模型から。全体のデザインは力強く、やはり前川の師匠であるル・コルビジェのユニテ・ダビダシオンを想像させます。

この模型は3層6住戸を一単位としたメガストラクチャーの構成を表現しています。将来の住宅の、規模も含めた可変を考慮した先進的なものでした。現実はそのような大規模な変更はなく、このままの構成でつかわれつづけたのですが、、、。

素晴らしいのは住宅のインテリア。全ての線が一致するように、高さ、畳の割り付け、欄間の位置が調整されています。前川らしい几帳面なデザイン。

一方で、配管は当初露出配管だったとの事。スペースの有効利用を考えていたとの事ですが、、、。

前川国男デザインによるダイニングテーブルと椅子。かっこいい!

WCと風呂の境界壁のデザイン。照明が両方を照らす形に。当時は照明の電力消費量が大きかったことによる苦肉の策。

これが面白い。各住戸へのアクセス図。スキップフロアのため、各住戸を訪れた人が迷わないようにとの配慮。でも、当時はスキップフロアなどないから、混乱しただろうな。。。

こちらは移築されたシリンダー状の外部階段。竣工後住民の要望で追加されたとの事。現地から良く持ってきましたね。

階段の模型、最初から設計されていたのかと思っていました。

かように、外から眺めたことはあったけと、インテリアを見てその良さを再確認しました。晴海高層アパートを解体すると聞いて、よくもまあそんな日本の建築遺産を解体するか、と思いましたが、いまだったら保存して再生する、という選択肢もありえたかもしれません。メガストラクチャーが現代のニーズに合わせて再生するところを見たかった気がします。


弘前市 前川国男の処女作「木村産業研究所」を見て

前川国男の処女作の視察記

前川國男の外装/上野公園の建築3題

外装材をテーマに、上野にある前川国男の建築について

UR集合住宅歴史館訪問その1-同潤会アパートメント

代官山の同潤会アパートメント模型、何回も見に行ったが、解体されてしまった。当時の写真は書庫を探せばあるはずだが、、、


先日機会があって、以前から行きたかった八王子にあるUR集合住宅歴史館に行ってきました。今回はその中でも特に集合住宅歴史展示棟について書きたいと思います。こちらの施設の一番の特徴はUR(旧名;日本住宅公団)の歴史を飾る代表的な建物のインテリアを移築して再現していること。これが日本の住宅史の貴重な資料ということで、ようやく現物を見ることができました。とはいっても、実は外から眺めたことがある建物が多いのだけど。

展示は同潤会アパートから始まります。同潤会アパートとは、、、UR集合住宅歴史館で配布されている資料から引用します。

「大正12年(1923年)の関東大震災の住宅の復興を目的に、義損金をもとに内務省の外郭団体として設立されたのが財団法人同潤会です。同潤会は、住宅不足を補うため直ちに木造住宅の建設に着手、その後、大正15年(1926年)からは、耐震耐火のアパートメントを建設、入居が始まります。同潤会アパートは、当時まだ珍しかった鉄筋コンクリート造の建物に、狭いながらも、ガスや水道、水洗便所を備えた賃貸住宅として、新しい生活様式を提示。10年間に東京と横浜の16か所に約2,800戸を供給しました。」

いわば、日本の近代集合住宅の原点でもある同潤会アパート、展示は東京に建設された建物すべての全体模型から、同縮尺で並べられた模型はすごい迫力で、これだけでも見に来た価値があります。

清澄通りの同潤会アパートメント群の模型、これらも全て解体されてしまいました。こちらもかつて何回も現地に見に行ったことがありました。

続く展示は、同潤会代官山アパートメントのインテリア移築。

当時の材だけでなく、家具、照明も全て移築されています。インテリアのデザインは、直線の構成など、どこかアールデコ調なところがあって時代のセンスを感じます。

窓も再現されています。下の窓はすりガラス、上のガラスは透明、プライバシーの確保だけでなく、天皇行幸のルートでもあったので、直接外が見えないようになっています。

造り付けベッド、下は収納になっています。

照明器具も当時のモノ。

仕上材と構造材の一部も移築。

これが面白い、集合住宅の扉の変遷。最初は木扉で、防火のため一部だけ鉄を貼っています。プライバシーや防音を考慮し扉がどんどん重く頑丈になっているのがわかります。ですが、これとあわせて住宅の個別化、核家族化が進み、家庭間の交流が減少していきます。

同潤会アパートの試みから日本の近代集合住宅は始まりました。ここでのノウハウが戦後の日本住宅公団にすべて引き継がれていきます。日本の集合住宅建築の歴史がここに息づいています。


引き続き、次は戦後の前川国男設計「晴海アパートメント」についての記事です。

 

書評「住宅が資産になる日」

住宅が資産になる日」村林正次 著 プラチナ出版

7月20金曜日の夜、私が以前から親しくさせて頂き、プロジェクトも協働したことがある村林正次さんが、株式会社価値総合研究所を退職され、新たに「社団法人 不動産総合戦略協会」を設立され、そこの理事長になられたということで、その発足パーティーがあり、お邪魔してきました。


発足パーティーの様子。会のあった「LIFORK大手町」は、大手町ファーストスクエア一階にあるコミュニケーションスペース、新しいワークスペースのひとつ。


会には関係者の方も多く集まっておられて、村林理事長他のプレゼンテーションもあり、盛大でした。びっくりしたのは前から聞いてはいたのですが、この会に村林さんが執筆された「住宅が資産になる日」の出版が間に合っていたこと。聞けば当日の朝に届いたとのこと。

タイトルだけでも非常に共感する部分があり、早速拝読させて頂きましたが、ありそうであまりなかった、住宅の不動産としての価値について、本質から述べた本になっています。

日本の住宅の問題は、戦災による住宅不足の解消から全ては始まっています。早急に住宅を国民に供給しなければならないために、持ち家政策や、住宅公団等による公営住宅の供給など、様々な政策がとられましたが、住宅の供給が1960年代に解消してもなお、その政策は続けられ、抜本的な変化がみられないまま今に至っています。

現在、全国で流通している木造住宅は、不動産の評価として築後25年で資産としての価値がゼロになります。皆様が必死になって組んだ住宅ローンが、資産として手元に残りません。これでは、老後の住み替えや、子世代に住宅を渡すこともままなりません。その結果のひとつとして、空き家の大量発生という問題が全国的な課題となっているのは、周知の通りです。

これら多くの課題をもつ住宅問題に、住宅の歴史的な流れも踏まえながら(このあたりご出身の早稲田大学建築学科戸沼研究室の流れもあるのでしょうか)、不動産コンサルタントとして包括的な分析が書かれています。また、国内の良い事例や、海外の不動産の考え方等など紹介しながら、今後に向けた提案やヒントが書かれています。住宅や不動産に興味のある方、ぜひご一読を。


「社団法人 不動産総合戦略協会」は、これらの問題に向けて少しでも解決になるような提案をしていきたい、とのことでした。私たちが進めている高断熱住宅RCZシステムも、住宅の不動産価値を大きく上げ、ストックとして生かせるような目的に向けて展開しています。そんな中で、村林さんとはいくつかのプロジェクトを進めており、時期がきたらここでもご紹介出来ると考えています。


「子ども世代に渡せるRCの家づくり」のページに、「ストックとしての住宅」というコラムを書いています。「住宅が資産になる日」の内容にも近い部分があります。ご参考まで。

ストックとしての住宅

空襲後の東京、戦後の住宅不足の解消から日本の戦後住宅政策は始まった。

素人でもわかるブロック塀の危険性判断

「子ども世代に渡せるRCの家づくり」のページに、今回の震災で問題になった「素人でもわかるブロック塀の危険性判断」について書いています。住宅やビル本体の耐震診断と違い、ある程度の見当は素人でもつくので、参考まで、問題ありそうであれば、専門家にご相談下さい。

→「素人でもわかるブロック塀の危険性判断

コンバージョンの好例/目黒区役所

1階回廊から水盤のある中庭を見る。

とある案件の現地調査があり、その足で必要もあって目黒区役所を訪れた。民間施設を公共施設にコンバージョン(用途変更による転用と併せた改修)した好例である。

この建物はもともと千代田生命保険本社ビルだった建物で、設計は村野藤吾による(1966年竣工)。1969年にBCS賞なども受賞し、東京にある彼の作品の中でも代表作といっていい建築だった。1990年代末の金融危機が引き金となり、2000年10月に千代田生命保険が更生特例法の適用を申請し破綻した。それに伴い、管財人が目黒区に本社売却を打診、ちょうど区役所が手狭になり建て替えも含め検討していた区が買い取り、大規模改修とあわせて区役所にコンバージョンした。

千代田生命保険ビルが区役所にコンバージョンされたと聞いて本当に驚いたものである。そして実際に使われているところを見に行って、さらに感動した。その気持ちはこの役所に訪れるたびに深まっている。まずは外部からみてみよう。

街中から建物を見る、繊細なアルミキャストの外装、低層の住宅や店舗が立ち並ぶ周辺環境にあわせ、外観を分節しスケールを感じさせないようなデザインを村野が心がけたことがよくわかる。

水盤のある中庭、アルミキャストの外装がこれでもかと使われ、外観にリズムをもたらしている。

側廊を見る。床からヌルっとタイルが立ち上がり窓面へ、このあたりは村野独特のディテール。足元の処理が本当にいつも面白い。

水盤に突き出す茶室、このあたりもなかなか見られるものではなかった。それが区役所となり市民に開放され、いつでも見ることができる。これはプライベート(民間企業)が所有していた文化的価値を、市民に(思いもよらず)開放したといえるだろう。

こちらもエントランス正面にある階段。自由曲線の連なる階段は村野の得意技。支柱の繊細なデザインも素晴らしい。写真でしかみたことなかったものが、いつでも見られて市民に使われている。このありかたに感動する。

エントランスホール、おそらく今の設計だったらこんな贅沢な空間の使い方はできなかっただろう、良い時代の建築だった。(公共施設として元々計画されたら、こんな空間はいらないとつるし上げを食っていたに違いない、民間施設→公共施設だからこそ成立している)

トップライトも村野らしいデザイン。(日生劇場の天井など思い出しますなあ)

コンバージョンを計画したのは安井建築設計事務所。事務所のHPにあるレポートを読むと細心の注意をはらって元のデザインを極力生かし区役所に改修したことがうかがわれる。改修工事に携わる設計事務所として良い仕事でした。

また、もともと千代田生命保険自体が、地域密着を当初から目指し、茶室の開放や、中庭を地元のお祭りに貸すなど、もともと地域に親しまれるような会社だったことも、公共機関への転用をスムーズに移行させた原因の一つといえる。

このコンバージョンは、目黒区役所にとっても、東京にとっても、良い文化遺産を手に入れたといってもいいのではないか。この建物を訪れるたびにそう考える。これからはストックをどう再利用していくかが問われる時代である。私もいくつかコンバージョンを手掛けているが、これから時代にあわせ、もっともっとこういう用途変更に力を入れて行きたい、そう思える場でした。


当事務所のコンバージョン例

Fleuve Tamagawa

場所は二子玉川(今話題の施設二子玉川RIZEのまん前)、倉庫を商業施設にコンバージョンした例。

ライステクノロジーかわち米ゲル工場

地方創生を目的とした新しい産業創出を目指し、閉鎖後10年間放置されていた給食センターを最新の食品工場に蘇らせた例。